キャリアコンサルティング協議会は国家資格「キャリアコンサルタント」の試験機関および指定登録機関と、国家検定「1級・2級キャリアコンサルティング技能検定」の指定試験機関です。

マンスリーコラム

2014年7月号

「将来の相談者を"後悔"させない」、その思いで相談に臨みましょう

みなさん、はじめまして。キャリア・コンサルタントの杉山崇です。人の幸せをお手伝いする相談職に就いて20年余りです。キャリア20年では、大ベテランが多く活躍する相談職の業界では、まだまだ若造です。

そんな私ですが、今回はみなさんと相談職について考えたいと思います。私はいわゆるバブル経済の絶頂から崩壊に向かう時期に学生時代を過ごしました。当時はバイトで金融の末端に身を置いていましたが、バブル崩壊で「人生の喜びはお金で買えない」ことを実感しました。この体験が私を相談業務や心理学に推し進める原動力になっています。私にとってキャリア・コンサルティングはお金で買えない人生の喜びをお手伝いできる魅力的な仕事なのです。最近の私は、キャリア・コンサルティングとは、「目の前の相談者だけでなく、将来の相談者を"後悔"や"絶望"から救う」仕事だと考えるようになりました。「救う」というとなんだか偉そうで恐縮ですが、それくらいの意識で、全力で臨みたいという意味です。ここでは、このことについて、心理学的および社会科学的に、ご一緒に考えてみたいと思います。

「生きられない人生」も人生の一部

精神科医のC.Jung(1875 - 1961)は、「生きていない人生」の意味について最初に考えた心理療法家の一人です。C.Jungは、人は体の作りや成長がある程度遺伝的に決められているように、心の作りや成長もある程度は生まれる前から決められていると仮定しました。その中には、自分の人生がどうあるべきなのか、自分の人生には何が必要なのか、といった漠然とした予感のようなイメージも含まれていると言います。たとえば、人生を導いてくれるような「支配欲のない叡智」に頼りたい...と感じたら、「老賢者(うまいやり方を知っている人)」と呼ばれる生まれる前から必要性を感じている人物に飢えているということです。このような気持は本能のようなものなので大事にしましょう。さて、老賢者の必要性は、現代の全人類にもほぼ共通のようですが、このようなイメージは長い進化の過程で獲得したものです。個人差もあります。また必ずしも現代社会に合わせて最適化されているわけでもありません。中には現代社会には適さないものもあります。たとえば、「自分はあらゆる人の上に立つべきだ」、とか、「自分は何かに隷属して生きるべきだ」というイメージは現代社会では適しにくいようです。となると、現代社会の制約のなかで、生きられる自分と生きられない自分が出てきてしまうのです。

まず、最初の制約は、一人に与えられた人生は「一人分」だということです。たとえば、みなさんにも子どもの頃になりたかったものがいろいろとあったのではないでしょうか。ほとんどの人は一人分の人生ではその中の僅かなところしか叶えられません。私の場合はロックスターを目指した時期もありましたが、同時に科学者にも憧れていました。ロックはアマチュアでもできますが、科学者は資格や研究環境の関係でプロでないとできません。そこで、まずは心理学者になりました。ロックはアマチュアとして続けていますが、プロとしての人生は歩めませんでした。このように、「一人分」という人生の制約の中で、必然的に「生きてきた人生は」と「生きてこなかった人生」が出てくるわけです。

相談でありがちな例では、あなたが就活や転職でA社とB社、二つの内定をもらったと想像してください。A社は希望の業界・職種ですが採用担当者から伝わってくるガツガツと攻め込むような社風があなたには合いそうにありません。一方で、B社の穏やかな社風はあなたに合いそうですが、業界も職種もあなたの希望とは違います。社風も業界・職種も「いいとこ取り」ができれば最高なんですが、そうもいかない。あなたの興味は間違いなくA社なんですが、あなたの中の何かがB社の社風を求めている...。こんなときには、どのように考えればいいのでしょうか。また、毎日の上司の顔色をうかがうサラリーマン生活に飽き飽きして、脱サラしてお店でも...なんて、想像しちゃうこともあるでしょう。でも、「会社が生活を保障してくれる人生」と「全てが自己責任の人生」。安心感という面では格差がありすぎます。このような場合も、どちらかの人生しか生きられません。「そんなこと、当たり前じゃないか」「思い通りに出来るわけないんだから、我慢が必要だ」という声が聞こえてきそうですが、ご自分の場合で考えてみてください。生きられない人生を簡単に切り捨てられますか?なんらかの複雑な思いは残りませんか?

人は矛盾だらけ

実は、人は合理的な生き物ではありません。そもそも、人類の脳が矛盾する仕組みだらけです。辛うじて、矛盾をスルー出来る機能のおかげでバランスを保っているのです。「当たり前」のことを当たり前に続けることって、実は案外むずかしいのです。なので、非合理な可能性を捨てることが「当たり前」、「当然」と理屈では納得できても、心のほかの部分が、「本当にそれでいいんですか?」と問いかけてくるんです。時に、頭では合理的とわかり切っている選択なのに、心が一つになり切れないことがあります。

A社とB社の例なら、「社風の問題は気分の問題」、「すぐに慣れる」、「まずは希望の仕事に近いA社で経験を...」、「どうしても合わなければA社での実績を土産に同業他社に転職を...」、というのが業界・職種を重視した場合の「合理的」と言われる考え方の一つでしょう。実は私も、何度も転職や異動を繰り返して、風土も業務も私の人生に最適な現在の勤務先にたどり着きました。20代、30代の前半までは、「社風は"慣れ"と"気分"の問題」と考えて、そのとき時の業務に没頭していました。その経験からの実感ですが、職場の雰囲気は業界・職種と同じくらい重要です。人は人に影響を受ける生き物なので、場の雰囲気に馴染めなければ実力を出すことも、成長することも難しくなります。仮に、もっと良い給料を提示されても、他に移れば社会的ステータスが上がるとしても、私はもう異動しないでしょう。勤務先・業務との相性が職業人としての「宝」だと深く深く実感していますので。

では、社風に注目して「A社の業界・職種に強い思いがないのなら、社風が合いそうなB社でもいいんじゃないか...」という考え方をすればいいのでしょうか?私にも転職を重ねる中でそのように感じさせてくれるような職場もありました。しかし、職業人としての人生は携わる時間だけで考えても人生の約3分の1。眠っている時間を除外すれば、人生の大半が仕事時間です。日本人の場合はもっと多いでしょうか。貴重な人生時間を興味の持てない業界・業種に費やすと、「興味の持てない人生」を生きることになります。これで良いのでしょうか?

何かを選ぶと何かが犠牲になる、という場面は他にも様々です。たとえば、ワーキング・マザーであれば「仕事は増やしたいけど子どもと遊ぶ時間が...」と。仕事を評価されて管理職をオファーされた人なら「昇進は嬉しいが、現場から離れて書類と向き合う毎日は...」と。退職を迫られた人なら「仕事に結びつく資格を取りたいけど勉強が辛そうで...」と。昔の人が「二つ良いことさてないものよ」と言うのは人生の真理の一端を表しているといえるでしょう。

人生を選べる悩み

さて、このような悩みはなぜ生まれるのでしょうか。人生の選択の幅がない時代であれば、悩むことはありませんでした。200年前は日本人のほとんどは農民でした。とにかく農業をするしか生活の手段がなかったので、貧困などの日々の闘争はあるものの人生に迷うことも悩むこともありませんでした。また、企業を護送船団方式で国家が護り、企業が正社員とその家族という形で国民の生活を守っていた高度成長期の時代には、大部分の労働者が正社員として企業にコミットして生きていました。「敷かれたレールのような人生...」、「鳥籠の鳥のような人生...」という表現がされることもありました。ですが、選びようがないのですから、目の前にある自分の人生を全力で生きるだけです。でも、現代社会は大なり小なり人生の選択肢が、無数にあります。情報もたくさん入ってきます。たくさんの情報と選択肢の中から、自分の「一人分の人生」をコーディネイトしなければならないのです。自分の人生を思い通りにコーディネイトできて、そして思い通りの結果が保証されている人生なら、あるいは二人分、三人分の人生を生きられれば、苦悩は小さかったことでしょう。しかし、選択肢は無限とも思えるほどありますが、可能な範囲は厳密に決められています。44歳の中年男の私が「サッカーワールドカップのファイナルマッチで決勝ゴールを決める」、という人生を望んでも絶対に有り得ません。

人生最大の苦悩は"後悔"です

さて、私は20年余りの相談人生で、たくさんの人生に立ち会ってきました。その中で、人生の最大の苦悩は"後悔"だと思うようになりました。特に中高年での後悔は壮絶です。取り返しの付かない過去を悔いるわけですから、手立てはありません。「もっとよく準備しておくべきだった」、「もっと深く考えておくべきだった」、「このことをあの時に知っていれば...」、「もっと家族との時間を大切にすればよかった...」などと考えても、中高年では後の祭りです。

近年、グローバル化によって産業と経済の構造が変わりました。ご勤務先の方針や体制が大きく変わった...という体験をしている中高年の方も多いようです。その中には「会社に裏切られた!!」と会社を恨む方もいます。一方で「会社を頼りきっていた」、「会社を信じすぎていた」自分を後悔する方も少なくないようです。後悔とは「生きてこなかった」あるいは「生きてこれなかった」人生を想って、取り返しがつかない現実に絶望している状態です。無力感に苛まれてしまいます。

もちろん、このことは個人の自覚の欠如だけで起こったわけではありません。すでにバブル期の最中から護送船団方式で国が企業を競争から護る産業構造が崩壊して、経済がグローバルな競争に巻き込まれることが予想されていたにも関わらず、その時の備えが社会のいたるところで遅れていました。その一つがキャリア教育です。企業に身を委ねる人生をモデルとしてしまって、それ以外の人生の考え方を、少なくとも私たちの年代までは教えてもらってきていません。心理学では加齢とともに考え方の柔軟性が失われることが知られていますが、まさにその年代で、人生の考え方への大きな転換を迫られた人々の苦悩は察してあまりあります。社会が変わる準備をしていない人が大半なのですから、このような後悔は自己責任に帰属するのはあまりにも気の毒です。ですが、もともと自分の人生とは自己責任。それを勤務先の企業が責任をとってくれるかのように考えてしまったことは後悔してしかるべきでしょう。

納得できる人生を求めて

さて、最後に相談の中で、私が心がけていることをご紹介したいと思います。私は、上記のような中高年の方とは、「これから生きていける人生」に焦点を当ててご一緒に考えたいと思っています。

話が一瞬だけ変わりますが、人生の最後の瞬間まで人生をより良くできると私は信じています。実は、昨年の秋、知人が五十路そこそこで癌でなくなりました。彼は亡くなる直前まで自分の人生をより意味のあるものにしようと自分と友人・知人を大切にし続けました。彼のブログを紹介します。
http://kubotamagic.blog.eonet.jp/

中高年の方も、彼に比べれば人生はまだまだたくさんあります。「これから先」があるのです。本当に心がお疲れの方には、人生をリタイヤしたくてしかたがないので、このような考え方は共感していただけないことが多いです。でも、私はお疲れの心に共感しながらも、全力で「これから先」を観るように心がけています。間違っても押し付けはしません。ですが、生きられる明日があるなら「これから先」は間違いなくあります。相談の理想的な目標は、これから先の人生で「何を生きて、何を生きないべきか」を語り合うことです。こうして、もう後悔しない、納得できる「これから先」が送れるようにご支援したいと思います。また、若い方を対象にするときには、その人の人生が求めているものと、その人が実際に生きられそうな人生のミスマッチを大切にして差し上げたいと思います。「そんな夢みたいな人生無理なんだから考えるな!」と言われても、みな生まれたからには人生に満足したいのです。「生きられないから」と切り捨てるのではなく、「生きられないこと」を人生の中にどのように位置づけて納得できるか...ここに挑戦するコンサルタントでありたいと思います。なお、若い頃にちょっとだけお世話になった心理臨床学者の故・河合隼雄先生は「(人生の)納得」ということを強調なさっていた時期がありました。実際の相談場面では、なかなかじっくり時間を取ってご一緒に考えるという余裕もないことが多いのですが、そういう意識だけは無くさないように、全力で臨みたいと思います。

結び

ところで、本当に最後に、相談を受ける側と相談をする側に必要な意識について紹介します。まず、相談を受ける立場も、相談をする立場も平等です。相談業務につく皆さん、一瞬でもこの気持を忘れたらプロ失格です。絶対に忘れないで下さい。そして、相談をする皆さん、相談の主役は皆さんです。主役として自分について全力で考える気持ちで相談においでください。きっと優秀なキャリア・コンサルタントがあなたのお気持ちに応えます。

杉山 崇(すぎやま たかし)

杉山 崇(すぎやま たかし)

神奈川大学人間科学部教授 2級技能士。

うつ病のケアと研究に関わる中で、うつ病になるキャリア(生き方)、うつ病にならないキャリアの違いを発見した心理学者でもある。研究では国家的な研究助成機構からも評価され、著作も多数。主な啓発書は『グズほどなぜか忙しい(ナガオカ文庫)』。現在は国立大学法人の相談機関やの個人契約で相談やスーパーヴィジョンも担当している。公益法人日本心理学会代議員、日本学術会議協力団体日本認知療法学会幹事。法政大学・大学院でも教鞭をとる。
1970年山口県生まれ。

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